鬼火(1963)|Le Feu follet☆フランス|ルイ・マル|モーリス・ロネ|ジャンヌ・モロー

すてきなドラマ
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死への焦燥感という普遍的なテーマに真正面から体当たりした作品。非常に重苦しく救いがたい気持ちになってしまうけれども、死に取り憑かれた人間の心の風景を丁寧に描いています。個人的には、こんなに静かで真面目な作品なのに、80年代に大ヒットしたSF児童映画との類似性を感じずにはいられません。

アルコール依存症の男は死ぬことを決意した。男は友人・知人たちを訪れ、順々に別れの挨拶を行っていく。どれだけ友人たちと触れ合っても、空虚さは増すばかりだった。孤独と虚無感から生きる気力が無くなった男の最後の48時間。

出典元:Gaumont/Official Trailer

原題Le Feu follet
公開1963
ジャンルドラマ
監督ルイ・マル
キャストモーリス・ロネ、ジャンヌ・モロー
受賞歴1963年度ヴェネチア映画祭審査員特別賞
イタリア批評家選定最優秀外国映画賞受賞

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以下は本作に対するmmの感想と考察です

20代中ごろで観た作品。ちょうど、10代の後半から20代の中頃まで人生どう生きるべきか悩んでいた。筆者も社会や人生に退屈していた。19歳になって、この先人生が何十年も続くのかと思うと、ゾッとしたのを覚えている。

テレビを観てもつまらない、友人と遊んでいても楽しい時間は一瞬で、一人の時間はつまらなかった。自分とは、何と自分自身をも楽しませることができない無能な人間なのだろうと思った。または、日本という平和な国に育っているから退屈さに支配されてしまうのではないかとも思った。何れにせよ、人生がまだ始まっていないのに、不謹慎にも既に退屈感で一杯であった。然し、自分を産み育ててくれた親より早く死ぬことはできない。それは親を生き地獄に陥れることと同じだから。

そんな風に人生に楽しさというものが見出せない若者にとって、当時、本作は非常にしっくり来る作品だった。

自殺することを決めた男が実際に自殺するまでの最後の48時間を描くなんて、どこにも楽しい所はない。だけど、人として生きる以上、山あり谷あり。人生のコマを進めていく上で、いつも能天気な気分ではいられない。

多くの人は、何を思って自分の空虚な気持ちと付き合ってきているのだろうか。

映画を観るというのは、他人の人生を垣間見る方法として手っ取り早い。ルイ・マルが何を思って本作を製作したのかはわからないけれども。

「僕は死ぬ。君に愛されず、僕も愛さなかったから。」

男は、友人・知人に旅立つ前の挨拶に行き、彼らの人生観を聴く。友人たちは自分の人生に迷いなく、それなりの情熱を持って生きていた。かつて心の交流ができたと感じた友人は、もおう全くの赤の他人だ。自分が人生に求めるものが何もないこと際立っていく。

男には生きる情熱が無くなっていた。そして、息をすることが苦痛になっていた。どこに行っても違和感を感じ、自分が宇宙人のように感じる。

男が死に囚われるようになったのは、明確な理由はよくわからない。ただ、上記のコメントからして、人との関係で自殺しようと思ったのではないかと推測する。

人との交流でもって自分が生きていくかどうかということに影響するのは、やはり人を欲しているということに他ならないのではないか。本当の意味で人を求めないのであれば、いくら自分が求められない存在となったとしても、自分の命を消し去る理由にはならないのではないか。

そう考えると、本作における自殺というのはある種の復讐的な要素が含まれていると言えるのかもしれない。自分が愛されなかった、必要とされなかったと感じたことに対する復讐。

自殺をするほど君(=妻)を愛していたと考えるのであれば、自殺は絶望が理由とも言えなくもないけれども、本作を観ているとそう結論付けるのも乱暴な気がするほど、妻を愛しているようにも思えない。

生きることに興味がなくなった、情熱がなくなったというシンプルな理由も含まれるだろうが、そう考えるに至る背景もあまり描かれていないため、男が自殺する理由がわからないままだった。

大女優ジャンヌ・モローの出演時間はたいへん短い(遊びで出演したのかな?)。

そして、登場して早々に、本作の彼女は、料理研究家の平野レミにそっくりなことに気が付く。ショートカットのスタイルといい、頭の形といい、小柄な感じといい。モーリス・ロネの鬱屈した雰囲気と180度違って明るく、その明るさの感じも平野レミによく似ているから、平野レミが鬼火に登場しているとさえ思えてしまうほど。どうしようもない重苦しい雰囲気におけるちょっとした休憩というか、心のオアシスの時間である。久しぶりに会う学生時代のクラスメイトのようで、快活な感じがとてもいい。

モーリス・ロネとジャンヌ・モローと言えば、『死刑台のエレベーター/Elevator to the Gallows』(1957)である。本作よりもずっと有名だ。『死刑台のエレベーター/Elevator to the Gallows』の切羽詰まった感じとは違って、本作のジャンヌ・モローは箸休め的なポジションである。演技もそれ程気合い入れる必要がなく、リラックスしてルイ・マルの作品にちょい役で出ているという感じがした。

本作を観ていると、80年代に大ヒットしたある児童向けSFファタジー映画を浮かべてしまう。『ネバーエンディング・ストーリー/The NeverEnding Story』(1984年)である(以下、「NES」)。

ジャンルも遠ければ、作品の持つ雰囲気や視聴者の層も違いすぎる。然し、NESの核となる考え方は、本作と似た位地にあると思えてならないから不思議。

NESは、「人が希望を失うと虚無に支配される、虚無は世界を滅ぼす」という考えから、虚無と闘い破滅を阻止するための冒険物語である。

本作の主人公は勿論冒険などしない。ただ死への一途をたどるばかりで、「虚無」が襲ってきた時のアプローチは全く正反対である。

NESは少年少女向けということもあって、「虚無」に戦いを挑むという非常に前向きかつ健康的な描き方である。それも当然のことで、NESでは「虚無」は自分の心の中に宿ったものではなく、周囲で自然発生的に「虚無」が生じているからこそ戦いを挑める。ここが本作と最も異なるところ。また、なぜ「虚無」が発生したのかは詳しく描かれていなかったと思うが(人々が希望を失った世の中になったという前提)、「虚無」の起源はおそらく多くの大人たちに宿ったものであろうと推測する。

もうエリック・サティは人の気持ちを心穏やかにさせない音を奏でる天才だ。不安や・不穏さ・皮肉をこんなにもシンプルな音で表現できるとは。サティのジムノベティを聞いていると心が沈む。

全く心の平穏が得られない不穏な旋律が、本作全体を通して流れる。サティの洗練された静かなメロディは、主人公の男の虚無感そのもの。誰が説得しても死ぬと決めたら死ぬという男の頑なさとピッタリマッチしていた。

-Hôtel du Quai Voltaire

男がかつて住みかとしていたホテル。物語の中盤で立ち寄るホテルとして登場。作家オルカー・ワイルドが永眠したホテルとしても有名。シベリウス等、その他多くの著名人も宿泊。ホテルの前をセーヌ川が流れ、エッフェル塔やオルセー美術館にも近く、ロケーション最高なホテル。

2012年にパリに行った際、セーヌ川に面した部屋に宿泊。バルコニーからはオルセー美術館が目の前に見える。夜はセーヌ川を下るクルーズ船が行き交い、それをバックにワインを飲むと、レストランとは一味違った素敵な夜が過ごせるだろう。難点なのは建物自体が古いということ。部屋は広くないが、ロビーや階段が重厚感があり時代を感じる内装だった。

  • 自殺することを決意した男の24時間を描く
  • 本作における自殺というのはある種の復讐的な要素が含まれているのでは
  • 本作のジャンヌ・モローは平野レミに似ている
  • 大ヒットSFファンタジー『ネバーエンディング・ストーリー|The NeverEnding Story』と根本的なテーマがほぼ同じ(と、個人的には思う)
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